研究記録

アルビジョワ十字軍とは? 1209年ベジエとカタリ派討伐で何が起きたのか

アルビジョワ十字軍とは? 1209年ベジエとカタリ派討伐で何が起きたのか

調査概要

アルビジョワ十字軍とは、1209年に教皇インノケンティウス3世の呼びかけで始まった、南フランスのカタリ派をめぐる十字軍です。ベジエ包囲、カルカソンヌ、トゥールーズ伯、異端審問への流れを通して、異端とされた信仰がなぜ軍事行動と地域支配の問題へ広がったのかを整理します。

アルビジョワ十字軍とは、1209年に教皇インノケンティウス3世の呼びかけで始まった、南フランスのカタリ派をめぐる十字軍でございます。

舞台はラングドック地方。ベジエ、カルカソンヌ、トゥールーズなどの町をめぐり、異端とされた信仰への対応は、説教や裁きだけではなく、軍事行動と地域支配の問題へ広がっていきました。

この事件を読むときに大切なのは、「カタリ派という信仰運動」「教会が異端と見なした理由」「十字軍として軍事化された経緯」「その後の異端審問への流れ」を分けることです。まとめて恐ろしい出来事として見るだけでは、何がどの順番で起きたのかが見えにくくなってしまいますの。

1. アルビジョワ十字軍とは何か

アルビジョワ十字軍とは、13世紀前半に南フランスで行われた、カタリ派をめぐる軍事遠征です。

一般に、1209年に始まり、1229年のパリ条約へ至るまでの約20年間の流れとして説明されます。名前の「アルビジョワ」は、南フランスの都市アルビ周辺と結びつけられた呼び名で、カタリ派の人々が「アルビジョワ」と呼ばれることもございました。

ただし、実際の舞台はアルビだけではありません。

ラングドック地方の広い範囲、特にベジエ、カルカソンヌ、トゥールーズなどの町や領主たちが関わります。

ここで討伐対象とされたのが、カトリック教会から異端と見なされたカタリ派です。カタリ派そのものについては、カタリ派とは? 1209年に始まったアルビジョワ十字軍と中世南仏の異端運動で、信仰運動としての背景を整理しています。

R-0038では、そこから一歩進めて、カタリ派をめぐる問題が、なぜ「十字軍」という軍事行動にまで発展したのかを見てまいります。

2. なぜ南フランスのカタリ派が問題にされたのか

カタリ派は、12〜13世紀の南フランスで広がったキリスト教系の宗教運動です。

彼らは、カトリック教会の制度や聖職者の権威とは異なる信仰の形を持っていたため、教会側から異端と見なされました。

中世ヨーロッパにおいて、異端とは単なる「別の考え方」ではありません。正統な信仰から外れ、人々の救済や共同体の秩序を危うくすると見なされる、重大な問題でございました。

特に南フランスでは、カタリ派が一部の民衆だけでなく、地域の有力者や貴族層とも関係を持っていたため、教会側から見れば、説教だけで簡単に消える問題ではありませんでした。

ここに、宗教だけでなく、地域の権力関係が重なります。

北フランスの王権や諸侯、南フランスの領主たち、教皇庁の意向が絡み合い、カタリ派をめぐる問題は、信仰の問題であると同時に、誰が南フランスを支配するのかという問題にもなっていきました。

3. 1208年、教皇使節殺害が転機になった

アルビジョワ十字軍の直接の転機としてよく語られるのが、1208年の教皇使節ピエール・ド・カステルノーの殺害です。

教皇インノケンティウス3世は、カタリ派への対応を進めるため、説教や交渉を試みていました。しかし、南フランスの有力者たち、特にトゥールーズ伯レーモン6世との関係は緊張していきます。

その中で、教皇使節ピエール・ド・カステルノーが殺害されました。

この事件を受けて、教皇インノケンティウス3世は、カタリ派とそれを十分に抑えない南フランスの領主たちに対して、より強い対応へ進みます。

その結果、1209年、十字軍が南フランスへ向かうことになりました。

ここで注意したいのは、アルビジョワ十字軍が「遠い聖地へ向かう十字軍」ではなかったことです。

向かった先は、同じ西ヨーロッパのキリスト教世界の中にある南フランスでした。異端とされた信仰を討つという目的のもと、キリスト教徒同士の戦いが十字軍として行われたのでございます。

4. 1209年ベジエで何が起きたのか

1209年、十字軍は南フランスへ進み、最初に大きな衝撃を残した町がベジエです。

ベジエには、カタリ派とされた人々だけでなく、カトリックの住民も暮らしていました。けれど、町は十字軍に包囲され、1209年7月、激しい攻撃を受けます。

ベジエの陥落は、アルビジョワ十字軍の中でも特に象徴的な事件として記憶されています。

このとき、「皆殺しにせよ。神は自分の者を知っている」という趣旨の言葉が語られた、という有名な伝承がございます。ただし、この言葉は後世の記録で伝えられるものであり、そのまま当日の発言として断定するには注意が必要です。

大切なのは、この言葉の真偽を刺激的に扱うことではありません。

ベジエという町が、異端とされた信仰への対応が、裁きや説教の段階を越えて、住民を巻き込む軍事行動として記憶される場になったことです。

ここでアルビジョワ十字軍は、単なる宗教論争ではなく、町、領主、民衆、教会、軍隊が絡む現実の事件として姿を現します。

5. カルカソンヌとトランカヴェル家

ベジエの後、十字軍はカルカソンヌへ向かいました。

カルカソンヌは城壁を備えた重要な都市で、トランカヴェル家の支配下にありました。若い領主レーモン・ロジェ・トランカヴェルは、ベジエやカルカソンヌを含む地域と関わる人物です。

1209年8月、カルカソンヌは包囲され、やがて降伏します。

この後、十字軍側の有力者としてシモン・ド・モンフォールが台頭し、占領地の支配を担っていきました。

ここから、アルビジョワ十字軍はさらに政治的な性格を強めます。

異端とされた信仰を抑えるという名目のもと、南フランスの領地や権力関係が変化していったからです。

つまり、アルビジョワ十字軍は「カタリ派をめぐる宗教戦争」であると同時に、「南フランスの支配構造を変えていった戦争」でもございました。

6. トゥールーズ伯と南フランスの支配変化

アルビジョワ十字軍を考えるうえで、トゥールーズ伯レーモン6世は重要な人物です。

トゥールーズ伯は、南フランスの有力な領主であり、教皇庁からはカタリ派への対応が不十分だと見なされました。教皇使節殺害事件との関係も疑われ、教会側との対立が深まっていきます。

ただし、ここでも単純に「トゥールーズ伯がカタリ派だった」と言い切るのは慎重であるべきです。

中世の領主は、地域の貴族、都市、教会、信仰共同体、外部勢力のあいだで複雑な立場に置かれていました。カタリ派への対応も、信仰だけではなく、地域政治と深く結びついていたのでございます。

1229年のパリ条約により、トゥールーズ伯側の力は大きく制限され、ラングドック地方はフランス王権の影響下へ組み込まれていきます。

この流れを見ると、アルビジョワ十字軍は、異端を討つ戦いとして始まりながら、結果として南フランスの政治地図を大きく変えた事件でもあったことが分かります。

7. アルビジョワ十字軍と異端審問の関係

アルビジョワ十字軍のあと、異端とされた信仰への対応は、軍事行動だけで終わりませんでした。

13世紀には、異端を調べ、証言を集め、信仰内容を確認する制度として、異端審問が整えられていきます。

ここで、アルビジョワ十字軍と異端審問を混同しないことが大切です。

アルビジョワ十字軍は、軍事行動を伴う大きな戦争です。一方、異端審問は、教会が異端の疑いを調べる制度として発展していきました。

もちろん両者は無関係ではありません。カタリ派や南フランスの異端運動をめぐる問題は、異端審問制度が強まっていく背景のひとつになりました。

制度としての異端審問を整理したい場合は、異端審問とは? 中世ヨーロッパで信仰を裁いた制度と魔女裁判との違いで、教会法廷、審問官、証言記録、魔女裁判との違いを確認できます。

R-0038では、異端審問そのものを詳しく解説するのではなく、アルビジョワ十字軍が、異端とされた信仰への対応を軍事と制度の両面へ広げていく流れの中にあったことを押さえておきます。

8. 魔女裁判とは何が違うのか

アルビジョワ十字軍、異端審問、魔女裁判は、すべて「教会」「異端」「信仰」「告発」と関わるため、混同されやすいテーマです。

けれど、同じものではありません。

アルビジョワ十字軍は、13世紀初頭の南フランスで、カタリ派をめぐって起きた軍事行動です。

異端審問は、異端とされた信仰や教えを調べるための制度です。

魔女裁判は、主に中世末から近世にかけて、悪魔との契約、呪術、害悪魔術などの告発と結びついて展開した裁判です。

つまり、三つの関係はこう整理できます。

  • アルビジョワ十字軍:異端とされた信仰をめぐる軍事行動
  • 異端審問:異端の疑いを調べる制度
  • 魔女裁判:魔女・悪魔・呪術の告発をめぐる裁判

魔女裁判との違いを見たい場合は、魔女裁判とは? 1692年セイラムで少女たちの告発が裁判へ広がった事件をあわせて読むと、異端審問と魔女裁判が同じではないことが見えやすくなります。

9. 禁書・検閲とのつながり

アルビジョワ十字軍は、直接には軍事行動の事件です。

けれど、広い目で見ると、教会が何を正統な信仰と見なし、何を危険な教えとして扱うのか、という問題とつながっています。

この問題は、後の禁書や検閲の歴史とも関係します。

信仰を乱すと見なされた教え、読まれるべきではないとされた本、広められると危険だと考えられた思想は、教会や国家の統制対象になっていきました。

もちろん、アルビジョワ十字軍と禁書目録を直接同じものとして扱うことはできません。

しかし、どちらも「何を危険な知識・危険な信仰と見なすのか」という問いを含んでいます。

その流れを本や検閲の側から見たい場合は、禁書とは? 禁書目録と検閲から、読んではならない本の歴史を整理が補助になります。

10. 現実資料で理解を補うなら

アルビジョワ十字軍を、単なる「異端討伐の戦争」としてではなく、中世ヨーロッパの宗教文化、魔術への恐れ、教会制度、魔女裁判や禁書の背景とあわせて見たい場合は、魔術史を広く見渡せる資料が助けになります。

中世から近世にかけて、魔術、魔女、異端、宗教的恐怖がどのように語られてきたのかを広く確認したい方には、魔術の歴史 魔法伝説と呪術師たちの物語とは? 魔術史の背景を広く見渡すための資料が向いております。

また、魔導書や禁書、図像資料が、宗教的な知識管理や書物文化とどのように関わったのかを見たい方には、ビジュアル図鑑 魔導書の歴史とは? 図版でたどる魔導書史の入門資料が補助になります。

現実資料は、事件を怖がるためではなく、当時の人々が何を信じ、何を危険と見なし、どのように記録したのかを落ち着いて見るための足場として使うのがよろしいですわ。

11. まとめ

アルビジョワ十字軍とは、1209年に始まった、南フランスのカタリ派をめぐる十字軍です。

教皇インノケンティウス3世の時代、カタリ派はカトリック教会から異端と見なされ、説教や交渉だけでは抑えきれない問題として扱われました。

1208年の教皇使節ピエール・ド・カステルノー殺害を大きな転機として、1209年に十字軍が南フランスへ向かい、ベジエ、カルカソンヌ、トゥールーズなどをめぐる戦いへ広がっていきます。

この事件は、異端とされた信仰が、軍事行動、地域支配、異端審問の制度化へつながっていく流れを理解するうえで重要です。

ただし、読むときには、次の点を分けておく必要があります。

  • カタリ派という信仰運動
  • 教会がそれを異端と見なした理由
  • 1209年に始まった十字軍としての軍事行動
  • 南フランスの地域支配の変化
  • その後の異端審問との関係

アルビジョワ十字軍は、ただの遠い戦争ではございません。

「正しい信仰」とされたものを守るために、何が危険と見なされ、どのように人々と町が動かされたのかを示す、中世ヨーロッパの重い記録でございます。

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